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戦国の世
物語る
首塚・胴山

戦乱の時代、今川軍がこの地で
横地・勝間田軍により壊滅的な打撃をうけた
この戦で亡くなった武将を供養・お祀りした

戦乱の時代、今川軍がこの地で
横地・勝間田軍により壊滅的な打撃をうけた
この戦で亡くなった武将を供養・お祀りした

いにしえの
戦国ロマンに
思いを馳せる

今より八百年ほど昔、建武三年(1336)今川範国は足利尊氏に属して武功をたて遠江の守護となりました。今川氏は以後 60年の間、遠江の守護をつとめましたが、応永二六年(1419)尾張の斯波(しば)氏が守護となり、その後100年続きました。
この地域を治めていた横地氏は、初め今川方でしたが守護が変わって斯波氏に属することになりました。
それから60年ほど後、今川義忠は昔の領地を回復しようと遠江に侵入を計ります。堀越陸奥守貞延を総大将として数千の連合軍を従え、横地・勝間田氏の本拠である小笠・榛原に進撃を開始しました。

戦に敗れた
今川氏の
武将を祀る

しかし、逆に、横地・勝間田軍に小夜の中山南側の海老名、影森(現在の掛川市)、公文名(瀧之谷周辺)の隘路に引き入れられて壊滅的な打撃を受けました。大将の貞延も討たれ、鞍ごと池に投げ込まれたといい「鞍骨池」伝説として語り継がれています。
周辺に点在する石塔は往時を物語っており、永寳寺の観音堂東側にも、今川氏の戦死者の供養塔が20~30体並べられています。
首塚・胴山、この戦いで亡くなった武将を葬ったところで、50~60年のち再び今川氏が遠江を平定するや、丁重に祀られるようになったと考えられます。

首から上の病には
ー この首塚様へ願をかけ、願い叶えば松笠や、穴あき石に糸をさし、齢(年)の数ほど供げなされ ー
このように、昔から首塚様に願かけすると必ず癒ると遠近からの信者の参詣も多かったようです。