村人総出の
「雨乞い」
瀧池弁財天
寛政九年(一七九七)村民の宿願で
近江の竹生島から勧請した弁財天
寛政九年(一七九七)村民の宿願で
近江の竹生島から勧請した弁財天
江戸期には
村中総出で
「雨乞い」
下池は寛文10年(1670)灌漑用としてつくられ、大井川用水調整池として今日に至っています。
浮島には弁財天が祀られています。
正しくは胎蔵界竹生嶋弁財天といい、寛政九年(1797)琵琶湖の竹生嶋から勧請されました。池の水は飲料水や農業用水として利用される西方川の水源であり、村民の宿願として祀られました。
昔は日照りが続くと、村中が総出で弁財天に雨が降るようにお願いした「雨乞い」がおこなわれ、古文書にはその様子が記されています。
「雨乞い」はまず各部落ごとにどの家からも1名ずつが出て、部落ごとに決まった場所に集まった。その後、太鼓と鐘を一つずつ持ち、村役人を先頭に行列を作り、鐘と太鼓を打ち鳴らして堀田を通って大頭竜へ行き、雨乞いの祈願をした。その後、公文名の瀧之谷の下池の弁天様に雨乞いのお祈りをし、祈願が終わると解散した。
当時の西方村の戸数は254戸でしたので、これだけの人数が行列をつくり鳴り物を打ち鳴らして整然と行く姿を思い浮かべると面白くもあります。
灌漑用水や設備のなかった昔は、日照りは大変深刻なことで、村中総出で神に頼む以外に方法はなかったのです。
浮島内には、その他に西方村の領主、池、学校や道路整備の歴史を記した旧西方村の沿革碑などが建てられています。
地域行事として、毎年4月の第1土曜日に弁財天をお祀りする「水源祭」が実施されます。
当時の様子を
書き残した
瀧池弁財天縁起
弁財天勧請に際して、永宝寺に三点の文書が残っています。
・竹生嶋勧請 瀧池弁才天縁起
・弁財天勧請 発願文
・添書付之事
「弁財天縁起」には当時の付近の自然情景や村の様子などが詳細に書き込まれています。
「発願文」には弁財天を勧請するに至った経緯や村人の想いに触れることができます。また、「添書付之事」は、永宝寺八代目 養元法印が60歳にして近江(琵琶湖)まで旅に出た際の通行手形であり、それぞれの文書は当時を知る貴重な資料です。